八千代座の秘密
八千代座の生い立ち
八千代座は明治43年に山鹿実業界が八千代座組合をつくり、その年の12月に完成。設計は木村亀太郎氏
翌年の八千代座こけら落としは松嶋家一行による大歌舞伎が行われた。それから昭和40年代まで、歌舞伎以外の様々な公演や映画館としても使われた。
昭和55年、時代の流れか八千代座は経営不振になり八千代座組合は建物を山鹿市に寄付、昭和60年には市指定文化財に指定されるも雨漏りなど酷い状態だった。
そんな状態に心を痛めたのは、華やかだった頃の八千代座を知るお年寄りの方々だったそう。老人会は「瓦一枚運動」と銘打って募金を募り、屋根瓦を修復。この運動に刺激を受けた地元の若者たちも、復興に向けて様々な活動を始めた。
そして昭和63年12月に国の重要文化財に指定、平成2年に市民の手で開催された「坂東玉三郎舞踊公演」を復興のきっかけに八千代座は全国的に有名になっていく。平成8年から始まる「平成の大修理」が行われ修復も完了。今では様々な公演、イベントが行われる全国でも珍しい「使える重要文化財」として活用されている。
また、八千代座は木造だが中央空間に「柱」がない。これは大屋根がトラス構造になっているため、舞台に邪魔な柱が見えないための配慮。スッポンや廻り舞台、奈落など八千代座には楽しい仕掛けもあるので、現代的な劇場にはない昔ながらの味わいのある芝居小屋なのだ。恐らく、それを一番味わっているのは演者さんである歌舞伎役者の方々に違いない。
八千代座との関わり方
今回、取材した時に行われていた歌舞伎公演も、地元の方が沢山関わっていた。
木戸口や案内の方々は、山鹿市内(近隣)から来られている有志で構成。
素人と言っては失礼だが、何十年もされている方もいらっしゃって、八千代座流の「おもてなし」を実践されていた。
八千代座が他と大きく違う所は「靴箱が無い」ということ。だから、公演の時は「履物袋」を手配りし、靴を持って入って貰う。これは靴を間違える人を防止する意味合いもある。
また、重要文化財よろしく飲み物を溢さない配慮、段差や忘れ物の案内など、八千代座だからしなければならないことを丁寧にされていた。
もちろん、お土産コーナーも地元の和菓子屋さんや酒蔵さんが並び、山鹿に来られた方々に喜んで頂けるような取り組みもされていた。
「アノお店のお菓子を買わなくっちゃ!」と言われているお客さんもいらっしゃって、長年の信頼関係が生まれいるのを微笑ましく感じた。
八千代座への想い・これから
長年、運営に携わっている山鹿八千代座桟敷会・世話人の長曽我部さんに御話を聞いてみた。
「お疲れ様です。これからもこうやって公演をされていくとは思いますが、山鹿桟敷会としての目標はありますか?」
「はい、もちろん。もっともっと八千代座で公演をしたいです」
「いろいろな方を御呼びしたいということですか?」
「そうでなく、八千代座は使いながら遺(のこ)していかなければならないからですね」
「なるほど、そうでした。使える重要文化財でした」
「あと、ある方に言われたのが、八千代座でしか出来ないことをしていきなさい、と言われました。それはいつも念頭に置いてます」
「そうですよね、八千代座のような建物はあんまりないですよね」
「はい、地域で創っていく小屋でありたいと願っています」
「ありがとうございました、頑張って下さい」
そうなのだ。始まりもこれからも、八千代座は地域の人達と繋がっていた。
ある御婦人が帰りしなに言われた。
「八千代座は何人入るの?」
「650人らしいですよ」
「少ないわね、舞台も近いし何だか癖になるみたい。また来るわ」
入る時と出る時の表情の違いが嬉しいから続けているんです、とスタッフの方が言っていた。
なぜ八千代座?それは体験してからの御楽しみ。(佐枝)
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